某掲示板に投稿した文章をセレクトしてみました。
アマオケの演奏会
昨晩、中学・高校の後輩たちの演奏会に行ってきました。
このオーケストラは、わたしが中1のときにできたもので、当時は言い出しっぺの社会科教員がチェロを弾き、陸上競技部と軽音楽同好会からバイオリンを、バスケ部からビオラを、サッカー部からフルートを、そしてボート部にいたわたしが棒をという風にあちこちから部員を引き抜いてきたものでした。そんなだから当然人数も少なく、演奏レベルもおはなしにならないような状態。
それから20年近くが過ぎて、ちょくちょく後輩の演奏を聴きに行ってたのですが、正直なところかつて棒を振ってた感覚が抜けきらず、「ここはもっとこうすれば」とか「ここのアンサンブルがどーも」とか感じてしまって、あまり楽しめなかったのです。
ところが... 昨晩の彼らの演奏。わたしがいたころと違って上品な学生が多いとも伝え聞くのですが、人数も増え技術も非常に向上している。特に、後半の「スコットランド」はまだ高校生になったばかりの新人くんが振ってたのですが、いかにもクラシックマニアらしい彼はこのややこしい曲をぐいぐいと引っ張る熱演を聴かせてくれました。濃淡の描きわけといい、音楽の運びといい、文句のつけようのないデキ。はっきり言ってムチャクチャでしたけどね^^;
初めて、彼らの演奏を聴いてすごいと思いました。
またこのような演奏を聴かせてもらえるのかと楽しみにしてたりします。
(Apr.2003)
子供の連弾
「子供の曲」というと思い浮かべてしまうのが連弾曲。特に、フォーレの「ドリー」組曲とその弟子・ラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲のふたつは憧れの作品だったりします。
共に作曲者が友人の子供たちの連弾のために作った作品で、演奏も(割と)平易と言われてます。が、アンサンブルやらちょっとしたテクニック上の問題があったりして、実際やってみるとやすやすと弾けるというものでもなかったりします^^;
どちらも何度か(パートナーを探してきては)挑戦しているのですが、まだ完全演奏はしたことがないのです。娘が大きくなったら一緒に弾いてくれるかなぁなどと気長なことを考えていたりします。
はてさて内容ですが、「ドリー」が子供たちに向ける優しいまなざしで、日常生活の中のちょっとした出来事(兄の名をたどたどしく呼ぶ妹の姿とか、一緒に生活している犬とか)を題材に描写しているのに対し、「マ・メール・ロワ」は異世界を描き出してます。
両組曲とも、素朴な美しさをたたえた1曲目が出発点となったといわれてます。「ドリー」の第1曲は「子守唄」。美しくも優しい旋律がたまりません。ちなみに、以前一緒にこの曲を弾いてくれた女性は、最初の練習のときに弾き終ってから「きれいな曲ね。子守唄みたい」と言っておりました。子守唄なんだけどなぁ。タイトルなぞ目に入らなかったらしいです(笑)
対照的に、「マ・メール・ロワ」の1曲目は「眠りの森の美女へのパヴァーヌ」。研ぎ澄まされた単純な旋律が、なぜか心にいつまでも残ります。第2曲「親指小僧」の、帰り道がわかるように撒いておいたパンくずを食べてしまう小鳥たちの恐ろしげな歌声、ほとんどお化け屋敷です。かわいらしく弾かなきゃかなり怖いです(笑)
また、第4曲「美女と野獣」ではサティ(美女)とドビュッシー(野獣)の掛け合いが聴こえてきて、なかなかに奥が深いのです。子供向けといって侮れません。
子供が演奏する、という前提で作られた作品でこの二つを凌駕するものを、わたしは知りません。一見音が薄いわりにうまく弾こうとすると難しいのでちょっと弾ける人には敬遠されてしまうのですが、もともと完璧な演奏を意図されて作られた作品でもないんじゃないかと勝手なことを考えてたりします。
脱線。「子供」の連弾ということでは、ビゼーにも「子供の遊び」という作品があるのですが、これがその...
上の二つの作品とのカップリング盤で聴いちゃったりすると、どうにもつまんないんですよね。とても弾く気にはなれません(暴言)
ビゼーのピアノ曲といえば、「ラインの歌」という組曲がありましてジャン=マルク・ルイサダがフォーレの夜想曲選集と共に録音しております。このピアニストがいかに凄いかについてはkeynotesさんがきっとアツく語ってくれると思いますが、この録音を聴いてから楽譜を見るとがっかりすること請け合いという異常な演奏であります。いやホントに凄いんだわこのピアニスト。
でもやっぱり「カルメン」はすばらしい。どうもビゼーってよくわからない作曲家なのであります...
(Apr.2003)
「子供の...」
というタイトルのピアノ曲集といえば、シューマンの「子供の情景」とドビュッシーの「子供の領分」の二つの組曲があります。
先の連弾の稿で取り上げたのは「子供が演奏する」という前提の作品でしたが、この二つは「子供」を題材にしているとはいえ、どちらもかなりアダルトな仕上がりです。
まず「子供の情景」。結婚前のシューマンが恋人クララに宛てた手紙の中で「わたしとあなたの間に子供ができたらきっとこうだろうと想像していくつか曲を書きました」...
とかなんとか書いてあったそうです。こわいですこの人ほとんどストーカーです(笑)
だから「子供」もあくまでイマジネーションの産物。デビュー曲を架空の恋人に捧げちゃったシューマン「らしい」逸話でありますが...
シューマンが大天才だと思うのはその描写がとてつもなく魅力的であること。第1曲「異国より」から、違う世界に吸い込まれていくような不思議な感覚に襲われます。そこで仲良く遊ぶ子供たち。メルヘンの世界です。
「子供の領分」は逆に、年をとってからできた娘に作曲者がプレゼントした作品。娘をかわいがる視線がいたるところに感じられる一方、第1曲「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」というクレメンティの練習曲をからかった作品など、ウィットも効いてます。ドビュッシーが大嫌いだったと伝えられる練習曲集「グラドゥス・アド・パルナッスム」を幸か不幸かわたしは知らないのですが、クレメンティといえばピアノを習ったことのあるものなら大抵は「つまんねぇ〜」という印象を持ってる作曲家かと。サティにもこの人のソナチネをパロった「官僚的なソナチネ」という作品がありまして、つい先日ピアノを弾く友人(前の稿の女性と同一人物)と電話で「サティの『官僚的なソナチネ』っていいよね〜」などとかなり盛り上がりました(笑)
さて。この曲を捧げられたドビュッシーの娘、シュウシュウの母親は、不倫の末に再婚したバルダック婦人という人物で、前稿で取り上げた「ドリー」の母親だったりします。その意味で「ドリー」とこの作品は文字通り姉妹作ということになるのですが、共通する「子供への優しい視線」にうっとりしつつ、でもお姉さんの家庭の犠牲の元にこの作品は成り立ってるの?とちょっと複雑な気分に浸れたり。ちょい、毒をはらんでいるのです。
わたしが人前でこの二つの曲集を取り上げたのは、曲の成立とは逆に、「子供の領分」は自分が子を持つはるか前の高校生のころ、「子供の情景」は娘が生まれてからでした。
「子供の領分」を弾いたときは、高校生に子を持つ親の気持ちなどわかろうはずもなく、ただただ魔術師ドビュッシーの音の繰り広げる世界を楽しんでたように思います。その目線はむしろ、父親にもらった曲を楽しむ子供に近かったんじゃないでしょうか。
「子供の情景」は、「トロイメライ」を弾いたら「上手だね」とおだてられたのをいいことに勢いで全曲弾いたのでした(笑)
いろいろな意味で、難しい曲集だと思います。ただ、「子を持つ父親のやさしさがでてたね」などと言われたのは嬉しかったです(きっとお世辞ですけど)。曲の成立にかかわらず性格付けが感じられる点、やはり名曲というものなのでしょう。
(Apr.2003)
ショパンコンクールの想い出
「ピアノ協奏曲」という形式を意識したのはいつのことだったか、たぶん小学生の頃だったと思うのですが、ちょうどその頃NHKで放映された第11回ショパンコンクールの印象は鮮明に憶えてます。
このときの優勝者、スタニスラフ・ブーニンの演奏は日本でもブームを巻き起こしたし、今聴いても協奏曲1番の演奏は凄いと思います。ハタチにもならない年齢にもかかわらず技巧的に完成度が高く音も素晴しいのに加え、表情の豊かなこと。バックのワルシャワフィルもノリノリで熱気に溢れています。冷静に聴くと、特に2楽章などの極限までに甘い表現が、たぶんこのピアニストの本質なのだろうと感じます。どうも速いパッセージをバリバリと弾くピアニスト、という側面ばかり強調されてたきらいがあるように思うのですが。
もう一人、この回5位入賞したジャン=マルク・ルイサダの、流麗かつファンタジーに富んだ演奏も印象的でありました。この人はショパンコンクールの時の演奏よりも、弦楽アンサンブルと合わせた室内楽版の録音がありまして、円熟味を増したこちらを聴くのも楽しいかと思います。管弦楽法的にどうこうというのなら編成を変えてみるというのもひとつの解決策なわけで、この作品の持つ構成の素晴しさ、発想の斬新さ、官能的な美しさを伝えた名演であります。
(May.2003)
フランソワ/フレモー盤
いい演奏って一体なんだろう?すばやいパッセージを巧みに弾いているということ?ミスがないこと?音が澄んでていいこと?はたまた、機械のように正確に楽譜を再現していること?
サンソン・フランソワというピアニストの演奏を聴いていると、そんな根源的な問いかけが想起されます。どの作品を聴いても、リズムを小粋に崩し、しかもそれが音楽の背骨を壊すことなく、それどころか全体を貫くプランとして破綻をきたさないセンスの良さは、他の演奏家に到底真似できるものではありません。彼の演奏をして「末端肥大的」と評した評論家がいましたが、そしてそれは細部をあまさず聴かせてくれる彼の演奏の一側面でもあるのですが、わたしはむしろ演奏が、(例えばショパンの後期作品のように起伏が激しく統一的な解釈の難しい作品においても)モザイク的にならず一本筋がちゃんと通っていることが素晴らしいと思います。ファンの贔屓目かもしれませんが。
ショパンのピアノ協奏曲については新盤旧番があり、旧盤の方がイイという意見もあるのですが、ここでは前に述べたような彼の特徴がたっぷり詰まったフレモーとの新盤についてふれてみます。第1番でまず驚かされるのが、ぐいぐいとオケが引っ張ってきたテンポをぶち壊すようなピアノの開始。異常なほど遅いピアノは、しかしそれまでの緊張感を壊すのではなく、聴き手を独特の世界へといざなってくれます。そのあとも細部のクリアーな描き方が見事で、ショパンがやりたかったことを誤魔化すことなく、しかも魅力的に聴かせてくれます。
もうひとつ指摘したいのが、マルカート奏法の美しさ。ショパンはレガート奏法というのが定説ですが、フランソワのショパンはショパンの「レガート」というコトバの概念を根底から覆してくれるような丸い美しい音の連続で表現しています。そう、レガートの本質は決して音を重ねて持続させることではなく、ピアノという楽器でフレーズを歌わせるやり方なのです。
歌が聴こえてくる、という意味においては2番の方が成功しているかもしれません。1番と同様、じっくりと語り聴かせてくれる演奏です。バックのオケも、原曲の響きが貧弱なら徹底的に景気よく鳴らせてやれとばかり元気一杯で、これがまた「濃い」表現のピアノと、時には対立し、時には和睦し、独特の音楽を形作っています。
「普通」の演奏ではないでしょう。いわゆる標準的な名演を聴きなれた耳には、グロテスクにデフォルメされた演奏と感じるかもしれません。脱線しますが、友人から「美人とは平均からの距離の小さい、普通の顔のことだ」と聞かされたこともあります。
でも、「普通」であることが絶対の価値なのでしょうか?フランソワの、酔っ払ったようでちゃんと目が据わっている...
ぢゃなかった、一本筋が通っていて説得力のある演奏は、「普通」であることを全面否定しています。そこに、わたしは惹かれてなりません。
もう一度、問います。
いい演奏っていったいなんだろう?
(May.2003)