その昔とあるMLに流したものを大幅に加筆訂正しました。
フランソワの演奏を初めて聴いたのはたしか小学生のとき。ショパンの音楽の魅力に目覚めながらも、巷にあふれた平凡な演奏をつまらなく感じていた頃に、ラジオで彼のショパンが放送されたのだ。最初はポロネーズ「英雄」。続いて、前奏曲「雨だれ」、幻想即興曲...どれも有名な曲なのに、最初のポロネーズから目茶苦茶面白く、エキサイティングだった。そして、いささか食傷ぎみだった幻想即興曲の、文字どおり幻想的な演奏に深く感銘を受けたのだった。あとで知った事だが、これは1960年にステレオで録音されたショパン選集の一部で、フランソワのもっとも脂ののりきっていた時期のものと言える。ともかく、サンソン・フランソワの名前は「目茶苦茶面白い演奏をするピアニスト」としてわたしの心に深く刻まれたのだった。
フランソワの演奏の特徴は、強烈な個性にある。ショパンを弾く時であれラヴェルを弾く時であれ、ベートーヴェンやモーツァルトを弾く時でさえ、作曲家や時代の様式にとらわれることなく、あくまで「フランソワ的」だった。「音の一つ一つに名刺のように名前が擦り込まれている」という表現を読んだ記憶があるが、まさしくそのようなピアニストである。だから、楽譜の改変(いや、単に思い違いなのかもしれないが...)や大胆すぎる、時には楽譜に反する解釈さえも避ける事がなかった。とくに、初めてわたしがふれたようなショパンのように他人の手垢のいっぱいついた通俗的名曲は、普通の演奏するのが恥だとでも思っているかのような独特の演奏をした。例えば、ショパンの夜想曲5番の酔っぱらったようなリズムの揺れや、協奏曲1番のソロ冒頭の遅すぎる開始部!これらは解釈の行き過ぎだと思う人も多いであろう。このような態度や、しばしば不正確になりがちな演奏から、現代の「客観的」演奏の信奉者からはフランソワの評価は高くない。しかし、考えてみればパハマンや、それほど時代をさかのぼらなくともブライロフスキー、ホロヴィッツらの演奏も「楽譜に忠実」というわけでもないのだ。だいたい、モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても、ショパンやリストにいたるまで、ピアノの作曲の大家達に与えられていた称号は「即興の天才」ではなかったか。
その意味で、フランソワを「19世紀のピアニストの生き残り」と評していた友人がいた。ともかく彼はヨーロッパ音楽の正統な「音楽家」であったことは間違いない。彼の作曲家としての資質は、「ピアノ協奏曲」や小品「黒魔術」の中で遺憾なく発揮されている。
このような演奏態度であったから、彼のレパートリーはその感性に制限されていた。ドイツ・クラシックは得意とするところでなかったし、ブラームスなどは絶対に演奏しなかったという。
先に「個性」と書いたが、その内容について言及しなければ片手落ちであろう。この点については、彼の指導者達から彼が何を受け継いだかを考える事で明確になるように思う。彼は、マスカーニからはメロディーの歌わせ方を、コルトーからは演奏美学を、ルフェビュールからは美しいノンレガートでパッセージを弾く演奏技術と巧みな編曲技術を、フェヴリエからは音楽の構成力を、それぞれ受け継いでいる。そして、フランソワが彼の師と(さらには弟子であるリグットとも)決定的に違うのは、「ファンタジー」であろう。フランソワの音楽には屁理屈はなく、ただ聴くものを彼の想像の世界へと誘ってくれる独特の話法がある。しばしば彼の演奏に見られる遅すぎる開始(前出のショパン協奏曲1番や、ポロネーズ7番、あるいはシューマン「謝肉祭」の終曲など)は、彼の世界へ聴衆を引込む「ツカミ」なのである。そしてそこからは、じっくりと音楽を語って聞かせてくれるのだ。
ラヴェルの「オンディーヌ」を他のピアニストの演奏と聴き比べてみればこのことは明確になろう。ペルルミュテやカザドゥシュ、ギーゼキングなどの超一流のピアニストと比べても、フランソワの演奏は独特である。やや俗なたとえで恐縮だが、ギーゼキングの演奏はまだ年端のいかぬ美少女を思わせる。カザドゥシュやペルルミュテのオンディーヌは「カタイ」女性のような雰囲気だ。フランソワのオンディーヌは官能的で独特の色気がある。
フランソワの演奏でお薦めなのは、ラヴェルの全集。彼のラヴェルは、吉田秀和が指摘しているように、ラヴェルの一面を強調したものにすぎないかも知れない。しかし、ラヴェルのファンタジックな一面をこれほどよく表現できたピアニストは他にいない。「夜のガスパール」や「左手のための協奏曲」のファンタスティックな表現は彼ならではである。フランソワのラヴェルはあまりに独創的である。「ガスパール」ではフランソワで聴き覚えていて他の演奏家の演奏を聴いたら驚くほどつまんなかったなどという声があるほど。逆に他の演奏家から入った方はフランソワは敬遠する傾向があるように思う。
ドビュッシーも、わずかな曲をとり残しているだけの全集が出ている(録音中に心臓発作で死去)。特に素晴しいのは、「ピアノのために」と「練習曲集第2巻(第9番を除く)」。「フランソワの演奏は不正確だ」という俗説を吹き飛ばすような正確かつファンタジーあふれる演奏。やさしい曲は練習しなかったのかもしれない。また、「ベルガマスク組曲」「子供の領分」といったポピュラーな作品でも、聴くたびに必ず新鮮な感動を呼び起こしてくれる名演ばかり。「亜麻色の髪の乙女」でリズムを間違えているのはご愛敬といったところ。
フランソワを語るのに、はずせないのがほぼ全曲を残したショパン全集。これは収録した時期が1950年頃〜68年位までと長いので、それぞれの雰囲気も録音条件もかなり異なるのだが、この中でひとつを選ぶとなるとソナタ2・3番であろうか。両方ともあまりに異様かつ独特の解釈であり、特に3番などは賛否両論ある。しかし、音楽をじっくりと拡大して語りかけるフランソワという音楽家の本質を知るのには格好の録音と言えよう。最近まで国内発売されなかった「舟歌」「幻想曲」「タランテラ」などの小品にもなかなか洒落た演奏を残している。比較的古い録音である練習曲やマズルカなどはぐいぐい引っ張っていくようなテンポ設定と、男性的ではあるが決して乱暴ではないタッチ、それに洒落た都会的洗練が聴くものを飽きさせない。それに対して、晩年の録音であるポロネーズやソナタ、幻想曲などは遅い(しかも決して遅すぎない)テンポによる開始や柔和な解釈が、年齢とともにピアニストの音楽に対する姿勢が変化していったことを伺わせる。
他では、プロコフィエフの協奏曲も面白い。スクリャービンなど、録音がソナタ3番しかないのが残念なくらいだ。